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国際政治とは何か(5)

中西寛 『国際政治とは何か』
第四章 価値意識の位相
結章 二十一世紀の国際政治と人間

★文明意識の展開
「近代人が開始した自由の探求と科学技術の発達は「仮想の地球社会」に到達した。人類は地球を共有すると同時に、地球に縛りつけられた存在であることを意識するようになった。そのことは、人間の価値観にいかなる影響を及ぼすであろうか。人類は始めて、理念としての世界市民主義ではなく、地球市民としての自覚を備えた存在となり、地球を分かっていた政治的分裂は超克されるのだろうか。」(p. 208)

「こうして「仮想の地球社会」化は、進歩主義的文明観を政治経済的イデオロギーへと転化した国家と、文化相対主義を埋め込んだ国民からなる第二次世界大戦以後の国民国家の安定を揺るがし、文明や文化といった価値の問題を再び国際政治によみがえらせた。普遍的価値意識と多様化する文化意識とは、これまでの国際政治を根本的に変えるのだろうか。」(p. 223)

中西氏の答えはともにNOのようです。それはまた皮肉なことに、中西氏の造語である「仮想の地球社会」という概念も国際政治を理解する上で役に立たないことを意味します。


★民主主義の拡張
「現代において、その実現方法や優先順位について論争はあるにしても、人権の道徳的、倫理的正当性そのものを疑う声は事実上存在しない。その意味ですでに人権の普遍的倫理性は確立されている。しかしそのことはかえって、普遍的倫理の実現を図る手段について、我々に政治的熟慮を求めるものではないだろうか。「地には平和を」求める精神が、「喜び勇んで徹底的に悪を行う」ことこそ、もっとも恐るべき事態だからである。」(p. 226)

はい、そうですね。たしかにある目的を達成するための「手段」について「政治的熟慮」は必要とされるでしょうね。「政治的熟慮」は必要としないと力説する人に対しては適切な主張と言えます。これもso what 主張です。国際政治学者に問われるのは、ある目的を達成するためには政治的熟慮が必要とされるかではなく、「どのようにすれば」政治的熟慮を伴う政策決定ができるかです。


「冷戦終焉後のアメリカでさかんに研究されているように、近代以降、民主主義国同士が戦争をしたことがないという経験的事実から、民主制を世界に拡散することが世界をいっそう平和にする、という「民主的平和」論も主張されるようになった。「民主的平和」論が正しいかどうかについては今日でも論争が続いている。しかし私は、こうした仮説は経験則としておおむね首肯できる、という程度にとどめておくのが妥当であり、厳密な定理として証明しようとすることは意味がないばかりか危険も存在すると考える。なぜなら、この仮説の意味するところを実践に応用しようとすれば、民主国と非民主国に抜き差しならない境界線を引いたり、民主主義を拡張することが真の平和の道なのだから、危険を覚悟してでも非民主国を民主化しようという主張につながりかねないからである。」(pp. 229-230)

では最初の質問。

Q1: ある仮説を実践に応用する際に問題が生じる可能性が高い場合、その仮説を定理として証明すべきではないのか。

Q2: 「民主的平和」論における仮説を定理(a theorem)として証明しようとした研究をいくつかあげよ。

私が知る限り、democratic peaceの研究のほとんどすべてが「明確に」反証可能な仮説についての統計分析です。結果がたまたま(orある程度は意図的に)民主国同士で戦争を行った事例はゼロとなっても、それは「定理として証明しよう」としたということにはなりません。

しかし、日本では本当に「民主的平和」論って人気がありませんね。たしか、河野勝氏も以前、『国際政治』で批判していたような…。

ちなみに民主化平和論を受け入れても、民主国が増えたら世界がより平和になるということにはなりません。非民主国同士で紛争が起きる確率が民主国─非民主国間で紛争が起きる確率より低い場合、民主国の数が増えると民主国─非民主国のダイアッドもともに増えるので、あるラインに達するまでは世界全体での紛争数は増えることになります。


「民主化を求める土着の勢力が十分に強くなり、比較的小さな助けで民主制への移行が望める場合には、介入が正当化される場合もありうるだろう。しかしそうした手段はあくまで例外的という位置づけを与えるべきである。なぜなら外部からの圧力による変革は、表面的な変革に終わってしまう危険性が大いにあるからである。…より妥当なのは、経済、社会、文化の交流によって個人主義の精神が浸透していくことや、民主主義制度が実際に機能し、いろいろな面ですぐれていることを示し続けるという「灯台」効果だろう。さらに、非民主的な国家について客観的な情報を国際的に公表し、その不適切さを指摘すること、自由を求めて迫害を受けた人々の政治的亡命を許したりするような間接的な圧力もおおむね妥当であろう。そしてし「仮想の地球社会」を可能にした情報通信技術は、こうした面で民主化に効果をもつものと言える。

このように、民主制の理想を掲げて自らの社会の改善に努め、民主的でない社会については緩やかに捉え、その不足を糾弾するよりも漸進的変化を促すことこそが、普遍的倫理を地球的規模で実行に移し、定着させる早道なのではないだろうか。」(pp. 233-235)

はい、そうですね。アメリカのネオコンに対しては有効な反論といえます。

しかし…

Q3: 著者はどのような根拠に基づいて、先進国が「非民主的な国家」についての「客観的な」情報を公表し、「非民主的な国家」の不適切な行為を指摘することを支持しているのか。

Q4: 著者はどのような根拠に基づいて、「自由を求めて迫害を受けた人々の政治的亡命」を積極的(?)に支持しているのか。

中西氏の立場がおおむね保守的というのはわかりますが、彼がどこで線引きするのかがわかりません。彼の主張からすれば、民主化の程度なんて客観的には分かりえないし、政治的亡命を積極的に受け入れると、国家主権体制の根幹を揺るがすから、できるだけあいまいにすべきであるという立場でも彼の全体的な主張と矛盾しないと思うんですけどね。

「国際政治のトリレンマ」及び「仮想の地球社会」という概念/仮説/理論は何も言っていないに等しいから、どのような結論でも引き出されるわけです。


★普遍的人権の法的保障
「そこで考えられるのは「慎重な普遍主義」と呼びうる態度であろう。今日の「仮想の地球社会」によってもたらされる世界市民的感情を背景としながら、実際にはきわめて例外的な手段として国際司法手続きを用い、国際社会の中で共通の正義の感覚が醸成されるのを期待するというアプローチである。…国際的な刑事裁判を多用することは単純ですっきりする解決策に見えても、実際には混乱と法への信頼の低下を招く。もちろん時には国際的な法的手続きしか道徳的正義感を満足させる手段がない場合もあるだろう。しかし、あくまでそうした措置を限定し、国内体制を充実させ、各国内での国際的な価値の共有範囲を広げることが先行すべきなのである。」(pp. 242-243)

はい、そうですね。「国際的な刑事裁判を多用すること」を支持する人の反論としては有効な議論ですね。では次の質問。

Q5: 国際正義の感覚を醸成するためにこそ、ジェノサイド等の人権迫害に対して国際司法手続きを常用すべきという主張にどう反論するのか。

Q6: 著者は「国際社会の中で共通の正義の感覚が醸成されるのを期待」しているが、なぜそのような楽観主義をとりうるのか。

ICCによる刑事裁判の使用は「きわめて例外的な」…、「時には」…、しかし、「限定し」…。

著者は、どういう風に「例外的」なのか、具体的にどのような「時」にか、どういう風に「限定」するのか明らかにするのは嫌がっているようです。普通の論文では、それがリサーチ・クエスチョンになるのですが…。当然、こういう省略した書き方をすること自体が問題というわけではありませんが、中西氏が想定する論敵はつねにa man of strawなので、なんら深みのない主張にしか聞こえないわけです。ICCによる国際刑事裁判を多用しろなんて言っている学者や政治家は実際にはどれだけいるでしょうか。そう考えている読者には中西氏の主張は新鮮に聞こえるかもしれません。でも大抵の読書はこの本を紐解く前からそう思っているでしょう。そういう人にはこのような議論はso what?にしか感じ取れないでしょう。


「人権の理念そのものは普遍的であるにしても、その実際のところは個別の国家等に委ねられねばならないので、安易に外部から人権の実行状況について圧力をかけることが恒常化すれば、人権は道義的輝かしさを喪失し、権力手段の一部となってしまう。」(p. 240)

Q7: なぜ「外部から人権の実行状況について圧力をかけることが恒常化すれば、人権は道義的輝かしさを喪失し、権力手段の一部となってしまう」のか。


★人道的介入の問題
「人道的介入の問題が議論を呼ぶのは、それが内政不干渉という主権国家体制の基本原則と、普遍的な倫理の要請の間の原理的な対立をもたらしかねないからである。…こうした原理的矛盾の存在を否定することはできない。しかしそのことによって思考を停止させたり、主権国家体制と普遍的倫理のいずれか一方の原理を捨て去ったりすべきではない。両者の立場を理解し、二つの立場の間で個々のケースごとに最適の選択をしていかざるをえないのである。」(pp. 244-245)

Q8: 主権国家体制と普遍的倫理のいずれか一方の原理を捨て去るべきと考えている国際政治学者を何人かあげよ。

この問いに簡単に答える人は、著者の上記の主張をおもしろいものと感じ取ることができるでしょう。一人もあげられない人は、「そうか、著者は百人中百人が言っているようなことを述べているにすぎないのだな」と受け取るでしょう。


「したがって、人道的介入についても「慎重な普遍主義」が基本的な姿勢であるべきであろう。今日、各国の人権保障状況を相互に、また国際機構やNGOが監視し、人権侵害に対して普段から注意を高めておくことは正しい。できるかぎり情報の交流の窓口を広げ、各国の国民が自らの状況を客観的に知る機会を増やすべきである。大規模な人権侵害状況があるとき、介入の契機をまったく否定してしまうことは現実的でない。しかし介入に至る手続きにおいてできるだけ広汎な国際的支持を集めることが望ましいし、またその支持が容認する範囲で行動することが妥当である。こうした手続きをとることで、介入の程度は不十分にとどまるかもしれないが、過剰介入よりも一般に害は少ないだろう。」(pp. 247-248)

Q9: 今の国際社会はこの「慎重な普遍主義」に基づいて人道的介入を行っているであろうか。

私は概ねそうだと思っています。だから中西氏とは異なり、私には今の状況に不満を感じています。

Q10: 「大規模な人権侵害状況があるとき、介入の契機をまったく否定してしまうことは現実的でない。」…なぜ「現実的でない」のか。

Q11: 「介入に至る手続きにおいてできるだけ広汎な国際的支持を集めることが望ましいし、またその支持が容認する範囲で行動することが妥当である。」…なぜそれが「望ましいし」、「妥当である」のか。

Q12: 「こうした手続きをとることで、介入の程度は不十分にとどまるかもしれないが、過剰介入よりも一般に害は少ないだろう。」…なぜ著者は「不十分」と「過剰」の間の「適切な」、「妥当な」、「望ましい」介入よりも「不十分」な介入を支持しているのか。

「古来から世界のほとんどの社会で最低限の道徳はそれほど異なっていなかった。嘘や盗みや殺人が許されないことはどこの社会でもほぼ共通である。しかしそれは最低限の道義であって、誰でもが食べられる栄養だけしかない宇宙食のようなものである。」(p. 248)

「たとえば、どのような行為が罪となり、どの程度の罰を受けるのかについて、ある種の共通感覚、つまり常識が共有されていなければならない。そのレベルでは、日本料理と西洋料理が違うように、現在でも人類は多様な価値観をもっている。そしてそのような深い価値の共有のある社会において初めて、人間は市民となるのである。」(p. 249)

著者のアナロジーのセンスを疑うなあ(-_-)。第二章でもハイテク兵器はカフェインを除去したコーヒーとか言っていたし、わけわからないたとえだ。

さらにもう一つ質問
Q13: 中西氏の主張を、人道的介入の積極的な実施にことさら反対する中国の立場を支持する論拠として用いることは可能か。


★豊穣な世界市民主義の可能性
「世界市民主義は、近代ヨーロッパにおいて普遍理性を体現する個人主義となった。この時の「世界」は、無限の広がりをもつ、ニュートン的な普遍的、均質的な宇宙をイメージしたものであった。しかし、「世界」が地球に限定されざるをえなくなった今日、世界市民主義の「世界」は真空の宇宙ではなく、意味や価値の相互作用によって満たされた「世界」と見なされなければならない。

そのような世界市民主義を「豊穣な世界市民主義」と呼ぶとすれば、今日の状況では、カントが提示したような「慎重な普遍主義」が「豊穣な世界市民主義」と組み合わされて初めて、「永遠平和」への道が開かれるのではないだろうか。今日の「共和制」は普遍的な正義の実現を希求するだけではなく、文化的多様性と両立しつつ、アイデンティティや文化に解消されない国民意識によって支えられなければないのではないだろうか。アイデンティティ、文化を異にする人々が一つの公共空間を共有し、相互に了解可能な言葉で物事を討議し、そこでの決定に従うという忠誠心をもつことこそが今日の「共和制」の一つの要件であろう。こうした共和制が増大し、文化的多様性の増大と世界の価値統一がなされることを期待し、それに向かって働きかけることが、一国のエゴイズムを超えた国家の目標となるであろう。その意味で「仮想の地球社会」化が進行する今日でも、主権国家体制、国際共同体、世界市民主義からなる国際政治のトリレンマは解消されていないし、また、そのトリレンマに住まうべきなのである。

カントも薄々疑っていたように、「永遠平和」は結局のところ、実現不可能であり、死者の国の平和なのかもしれない。しかし、永遠平和の可能性を信じることが、結果的に地上の平和をもたらす効果をもちうるのである。「仮想の地球社会」を現実の地球社会に転換することは決して実現しないかもしれないが、それでもその可能性を信じることは無意味ではないのである。」(pp. 261-262)

Q14: なぜ「共和制が増大し、文化的多様性の増大と世界の価値統一がなされることを期待し、それに向かって働きかけることが、一国のエゴイズムを超えた国家の目標となる」のか。

Q15: どういう意味で「主権国家体制、国際共同体、世界市民主義からなる国際政治のトリレンマは解消されていないし、また、そのトリレンマに住まうべき」なのか。


★二十一世紀の国際政治と人間
「人類が複数の政治的共同体に分かれ、第一義的には個々の政治的共同体の中で問題解決を図ることを原則とした上で、複数の政治的共同体に関わる問題について協力の範囲を広げるべく努力する伝統的な国際政治のあり方は、多くの矛盾と限界を抱えながらも、安易に否定しえない意義をもっていることを本書では強調してきた。

こうした私の立場は保守的と見なされるかもしれない。しかし、私はいくつかの理由から保守的な立場には意味があると考えている。」(p. 267)

いやこういう立場を国際政治学で「保守的」と呼ばれることはありません。国際政治学ではあまりにも「常識的」な立場です。

「もちろん「仮想の地球社会」化の衝撃の大きさを考えると、現代の国家が多くの面で大きな変革を求められていることは確かである。…しかし人類全体に対していきなり一つの政治的枠組みをあてはめようとするよりも、世界の各地でさまざまな転換が試みられ、その中で成功した試みから他者は学び、自らの状況に適合する形で取り入れていくということが人間にとって自然な姿ではないだろうか。そのような多様な創造性を生かす仕組みとして、主権国家体制は今日でも国際秩序の十分条件ではなくとも、必要条件なのではないだろうか。」(pp. 269-270)

誰に対する問いかけなのでしょうか?

Q16: 主権国家体制を否定している国際政治学者をできるだけあげよ。

この問いに簡単に答えられる人は中西氏の主張をおもしろいと感じることができるんでしょうね。


「近代が人類にもたらした革新の中でも自由の観念とテクノロジーとは、最も根源的なものであり、ある時期まで両者は手をたずさえて進んできた。しかし今日、宇宙に人間を住まわせることを可能にしたテクノロジーは人間そのものをどう定義するかという問題を提起する段階にまで達した。テクノロジーの発達は、人類をまったく異なる生物へと、場合によっては不老不死さえも可能な生物以外の存在へと進化させうるのかもしれない。しかし私はこうした可能性に対して、伝統的な人間の生き方を守りたいと思う。さまざまな制約の中で生きることこそ、地球環境に生を享けた人間の責務であり、また人間の生み出してきた一切のものの源泉だからである。そして複数の国家によって営まれる国際政治は、こうした伝統的な人間からなる人類が、「仮想の地球社会」の住人としてではなく、現実の人類全体を統治するための、現在のところ最も確実な方法ではないだろうか。」(p. 270)

Q17: なぜ「さまざまな制約の中で生きることこそ、地球環境に生を享けた人間の責務」なのか。

Q18: なぜ「さまざまな制約の中で生きることこそ」「人間の生み出してきた一切のものの源泉」なのか。

Q19: なぜ「複数の国家によって営まれる国際政治は、こうした伝統的な人間からなる人類が、「仮想の地球社会」の住人としてではなく、現実の人類全体を統治するための、現在のところ最も確実な方法」なのか。


「友愛はたしかに積極的な価値である。しかしそれだけに、人間の愛の総量には限界がある。…それに比べて寛容の要求水準は低い。それは人々がある程度余裕を持ちさえすれば、生まれうる価値である。私はテクノロジーがもたらす「仮想の地球社会」の中で人々が理性に目覚め、人類愛によって結ばれて平和と幸福と長期の健康とを享受するようになる世界よりも、時に怒り争い、時に欠乏に不平を鳴らし、時に誤解をしながら、人生に希望を抱きつつ、幾人かの人を愛し、やがて死んでいく人間からなる社会に住んでいたいと個人的には願うし、そこにこそ人間的な秩序が存在すると信じている。」(p. 277)

勝手に信じれば?


では総括。
反証可能性の著しく低い書き物のコメントをするのはきわめて面倒ってことがあらためてわかりました。「国際政治のトリレンマ」や「仮想としての地球社会」という概念から国際政治に対する新たな見地が生まれることはまずないでしょう。

「国際政治は複雑だから、リアリズム、リベラリズム、グローバリズムすべての議論を分析する必要がある」なんて言説は正しくはあっても、学部生のレポート程度の仕事でもそんな議論ではAはもらえません。同様に、「国際政治のトリレンマ」という概念も条件付考察がなければたんなるso what?です。また、「仮想としての地球社会」なんて概念を使う場合、それはどの程度において「想像」そして「現実」の産物なのか明確に示しておく必要があります。中西氏は著しく「限定的言説」が不得手なようなので、同じ概念を使いながら、ときにはリアリスト的な議論を支持しているにもかかわらず、別の時にはグローバリスト的な主張をしたりします。条件付考察とは、どのような「状況」or「条件」の下ではそれがあてはまり、どのような「状況」or「条件」の下ではあてはまらないかが「明確」な議論を指します。中西氏の議論にはそれがありません。

もう一度第四章第二節「慎重な普遍主義」を再読して、次の問いに答えてください。
Q20: スーダン、ミャンマー、ジンバブエ、中国、北朝鮮、ベラルーシ、イスラエルの七カ国は今の国際社会では問題国と見なされがちです。中西氏の主張に従えばいずれかの場合は介入すべきとなるはずですが、彼の議論に従うとどの国では人道的介入をすべきか。

条件付考察がなされていれば、この問いに簡単に答えられるはずです。


最後になりますが、ちゃんと仮説─検証の方法論をとったら異常なほどに独立変数がありそうな中西氏の包括的議論でなぜか抜け落ちていたものが二つ。ということで最後に二つの質問。

Q21: なぜ著者は「攻撃的リアリズム」の議論をほとんど無視したのか。

Q22: なぜ著者は覇権論の議論をほとんど無視したのか。

中西氏の国際政治論は国際社会を階層的秩序とみなす覇権論的視点に著しく乏しいのですが、その根拠は?

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